2025シーズン、かつて“SAMURAIBLUE”をまとった新戦力が、“HAMABLUE”に加わった。
プロ14年目を迎える、FW・鈴木武蔵。
攻守両面で存在感を発揮する31歳のストライカーは、4度目のJ1を戦うチームに欠かせない存在だ。
ピッチ内で見せるアグレッシブなプレーと、穏やかな喋り方や物腰の柔らかさのギャップでも横浜FCのファン・サポーターを魅了している。
強さと優しさを兼ね備えたストライカーのバックボーンに迫る。
ゴールが、武蔵の恩返し
鈴木武蔵 FW 7
取材・文=北健一郎、青木ひかる
「14年目?俺って、もうそんなにプレーしてるの!?」
自分のプロキャリアに目を丸くする武蔵は、日本のほぼ裏側に位置する、カリブ海に浮かぶ島国・ジャマイカのモンテゴ・ベイで生まれた。
日本人の母と現地で生まれ育った父の元、白い砂浜と青い海に囲まれ、のびのびと育ち、小学生に進学するタイミングで、母の実家がある群馬県の太田市に母と2人で戻ることになった。
「ジャマイカでは毎週末に海に行っていたんですけど、そこから日本の中でも海がない群馬に住むことになりました。周りにも僕のようないわゆる“ハーフ”の子はいなかったし、初めはかなりギャップを感じていましたね」
サッカーに出会ったのは7歳の頃。
友人から誘われたのがきっかけだった。
「もともと野球をやっていたんですけど、サッカーをやってみたらドリブルも点を取るのも楽しくて、いつの間にかハマっていましたね」
「長距離も短距離も得意だった」という身体能力は、サッカーのグラウンドでも発揮されるようになっていく。
ただ、武蔵を苦しめたのが、学年が上がるにつれて強まる、同級生からの“容姿の違い”に対する心無い言葉だった。
「めったに怒ることはない」という性格もあり、はじめは泣き寝入りすることしかできなかった。そんな時、心の一つの支えとなったのがサッカーだった。
「最初はただ楽しくプレーしていただけだったんですけど、だんだん負けるのがすっごく嫌になってきて。周りからいろんなことを言われるようになったのも辛かったし、サッカーをもっとうまくなって有名になって、言ってきている奴らをいつか見返してやろうという気持ちでしたね」
胸に芽生えた、静かな闘争心。
決して美談で済ませてはいけない問題ではあるものの、武蔵にとって幼少期に味わったこの“痛み”が、のちに「日本人選手」として、サッカー日本代表まで上り詰めるための、一つのエネルギーとなった。
小学校を卒業後、武蔵は地元に新しくできたFCおおたジュニアユースで、並外れた瞬発力を武器に、1年生からレギュラーとして同年代のライバルを圧倒。
そして、高校からは地元の強豪校に進むことになる。
「進学先をどこにしようかなと考えていた時に、全国高等学校サッカー選手権大会の予選で前橋育英高校と桐生第一の試合を見に行ったんですよ。そこで、桐生第一のサッカーを見て、すごくワクワクしたんですよね。このチームの一員として、前育を倒したいという気持ちに駆られて、桐生第一でプレーすることを決めました」
入学後は、小林勉総監督(当時)からサッカーの基本技術を徹底的に叩き込まれた。
「全体練習が終わった後もグラウンドに残って練習をして、家に帰るのはだいたい夜9時とか10時とか。1年生の時はほとんど試合に出られなかったし、めちゃくちゃきつかったです」
それでも3年間かけてチームのエースへと成長を遂げる。
3年生の高校選手権予選では、決勝戦で延長戦の末に5連覇中の前橋育英高校を下し、全国の切符を獲得した。
「本大会の初戦でハットトリックできて……今思い返してもびっくりしています(笑)。優勝できる自信はあったので、優勝できなかったのは悔しかったけど、3年間の努力は無駄じゃなかったと証明できたので、本当にうれしかったですね」
桐生第一は初出場ながらもベスト8まで駒を進め、4ゴールの活躍を見せた武蔵は大会優秀選手に輝き、華々しく高校3年間を締め括った。
高校生活でもう一つ忘れられない出来事となったのが、U-17日本代表の初招集だ。
幼心に誓った「いつか見返してやりたい」という気持ちを胸に、初めてまとった日本代表のユニフォーム。
奇しくも初の国際大会デビューとなったFIFA U-17ワールドカップでは、自身のルーツに深く関わるジャマイカと同じ予選グループに振り分けられ、直接対決が実現した。
「そもそも、アンダーの代表があるということを呼ばれてから初めて知ったので、とてもびっくりしたし、ジャマイカと対戦できるとなった時も『こんなことってあるんだな』と。すごく不思議な感覚で、言葉に言い表せないような、特別な感情になりました」
試合を終えて感じたのは故郷・ジャマイカへのリスペクトと、日本への愛。
そして「これからも“日の丸”を背負って戦いたい」という強い意志だった。
そして、武蔵は2016年にU-23日本代表としてリオデジャネイロオリンピックに出場、2019年には初のA代表“SAMURAI BLUE”選出と、名実ともに日本を代表する選手となっていった。
2007年のプロデビューからJリーグでは6つのクラブ、2020シーズンには初の海外挑戦としてベルギーリーグのKベールスホットVAでもプレーした。
プロ1年目はアルビレックス新潟で高校時代よりもきついフィジカルトレーニングで鍛えられた。
V・ファーレン長崎では、元日本代表FWの高木琢也監督(当時)と居残り練習をして初めて2ケタ得点を達成した。
ベルギーでは、日本人がいない環境を選んでホームシックになったこともあった。
楽しいことも、うれしいことも、悔しいことも、辛いことも。
プロサッカー選手として順風満帆なキャリアを歩んできたわけではない。
それでも“すべてがプラスになる”と振り返ることができるのは、「苦しさと向き合った時間が、人を成長させる」と考えているからだと語る。
「もうプロ生活も長いですけど、試合に負けたりゴールがない時期が続いたりすると落ち込みます。こう見えてけっこう繊細なところもあるので(笑)。だけど、挫折をしたり、苦しんだりしたからこそ、そばにいてくれる人の大切さを感じるし、そのぶん自分も人に対して優しさをもつことができると思っています」
自分の中にある負の感情とも向き合い、時には周りに支えられながら、悩みに悩んで信じた答えを正解にし、気持ちと結果で恩返しをする。
その“モットー”こそ、武蔵の強さの真髄と言えるだろう。
武蔵にとって、8つ目の“新天地”となった横浜FC。
同じタイミングでHAMABLUEの一員となった三浦文丈コーチは、父親のような表情で11年ぶりの再会の印象を語る。
「僕が新潟でコーチや監督という立場で見ていた時から変わったのが力強さ。後ろからコンタクトされた時も、若い時だったらへにゃっと倒れてしまっていたけど、今は相手を引きずりながらボールを前進させてくれている。本当に頼もしくなったなと思いますよ」
三浦コーチだけでなく、北海道コンサドーレ札幌でともに戦った四方田修平監督、福森晃斗、中野嘉大、駒井善成と馴染み深い顔がそろう。
“堅守”がウリのチームにおいて、武蔵は前線での守備のタスクなど求められることに全力で取り組んでいる。
攻撃面については、第3節の横浜F・マリノス戦での負傷離脱こそ痛手となったものの、復帰後から徐々にコンディションも復調し、第7節の名古屋グランパス戦で加入後初ゴール、そして第11節のガンバ大阪戦では初アシストをマークした。
ただ、リーグ戦8試合出場で1ゴール1アシストという現状にはもちろん満足していない。
「もっと、もっとシュートを打ちたい」
どんな時もおだやかな口調で話す武蔵だが、鋭い眼光は常にゴールを捉えている。
「ヨモさん(四方田監督)のおかげで、簡単には失点しないチーム作りができていると思います。でも、攻撃の選手としては自分のゴールでチームを勝たせたい。キャプテンとか副キャプテンの立場ではないけれど、ベテランと呼ばれる年齢ですし、結果でも振る舞いでもみんなを引っ張りたい。そして、必ずJ1残留を成し遂げます」
“ハマのサムライ”は、今日もチームの勝利のために戦い続ける。
鈴木武蔵/FW 1994年2月11日生まれ。185cm、75kg。
ジャマイカのモンテゴ・ベイで生まれ、6歳から母の実家である群馬県前橋市で育つ。7歳でサッカーを始め、FCおおたジュニアユースから桐生第一高校に進学し、創部史上初の全国高等学校サッカー選手権大会出場を叶えた。高校卒業後、アルビレックス新潟でプロ1年目を過ごし、J2クラブへの期限付き移籍を経て、2018シーズンに完全移籍で加入したV・ファーレン長崎で2ケタ得点をマーク。翌シーズン加入した北海道コンサドーレ札幌でキャリアハイの13得点を決め、日本代表に選出された。2020シーズンには自身初の海外移籍に挑戦し、ベルギーリーグのKベールスホットVAで2年間プレー。Jリーグ復帰後、ガンバ大阪と札幌を経て、2025シーズンに横浜FCに加入した。俊足を活かした背後への裏抜けとフィジカルの強さを生かしたボールキープで、虎視眈々とゴールを狙い続ける。